実践女子大学学祖 下田歌子先生

 実践女子大学の学祖下田歌子は、宮中に出仕して明治天皇のお后昭憲皇后にお仕えし、また、後には学習院女子部の創設、次に華族女学校の学監(校長)として上流階級の女性の教育にあたりますが、一方で、一般庶民の女子教育が大切であるとの考えから、実践女子学園を創設します。それは、次世代を担う子供を育む一人ひとりの女性の教養が高くなければ、国全体の豊かさにはならないと考えたのです。そして、その女性像とは、本当に教養高く、常識をもって、心深くしっかりしていることであり、そのためには、古典文学や和歌の素養が、どの子女にとっても基本であると考えました。
 昭和初期の頃、下田歌子は源氏物語の講義に情熱を注ぎます。「早稲田の坪内逍遙のシェイクスピア論と実践女子学園の下田歌子の源氏物語講義はすばらしい」ということが東京中で評判になったという記録もあります。その評判を聞いて折口信夫は「下田先生は歌人で宮中の生活を体験しておられる方だから、ぜひその講義を聴きたい」と下田歌子の源氏物語講義を聴講し、最晩年の歌子に直接対面しています。
 これより前、すでに折口は、三矢重松から引き継いだ「源氏物語全講会」を行っていました。この「全講会」に出席して熱心にノートを取っていた聴講者に、於保美遠(おぼ・みほ)という、実践女子学園の先生がいました。於保は、三矢重松の「全講会」も聴講しており、かつ、折口門下の短歌結社に所属が認められた希有の女性の一人であり、彼女のノートを通じて、歌子は折口信夫の講義の内容を知ります。そして、それを見て、「この人(折口)の源氏の理解の深さは格別だ。訳に全くぶれがない」と感心したというエピソードがあるのです。
 このように、三矢重松・折口信夫と下田歌子は、「源氏物語」の研究と教育の交流を通して、深い関係があるのです。

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