源氏物語講座


 

目次
1. (源氏)「いとあはれにものし給ふ事かな。
2. (源氏)「あやしき事なれど、幼き御後見におぼすべく、
3. 君は心地もいとなやましきに、雨すこしうちそゝぎ、
4. (源氏)「げに、うちつけなり、とおぼめき給はむも道理なれど、
5. 「あな、今めかし。この君や、世づいたる程におはするとぞ思すらむ。
6. (源氏)「かうやうの人伝なる御消息は、まだ更に聞え知らず、
7. (源氏)「うちつけに浅はかなりと御覧ぜられぬべきついでなれど、
8. (尼君)「げに思ひ給へより難きついでに、かくまで宣はせ聞えさするも、
9. 暁方になりにければ、法華三昧おこなふ堂の懺法の声、
10. 明け行く空はいといたう霞みて、山の鳥どもそこはかとなく囀り合ひたり。
11. 御迎への人々参りて、おこたり給へる喜び聞え、
12. ひじり、御まもりに独鈷(とこ)奉る。
13. うちに僧都入り給ひて、かの聞え給ひし事まねび聞え給へど、


1.(源氏)「いとあはれにものし給ふ事かな。

テキスト・161頁10行目より

 (源氏)「いとあはれにものし給ふ事かな。それはとゞめ給ふかたみもなきか」と、幼なかりつる行方(ゆくへ)の、なほ確かに知らまほしくて、問ひ給へば、(僧都)「なくなり侍りし程にこそ侍りしか。それも女にてぞ。それにつけて、物思ひのもよほしになむ、よはひの末に思ひ給へ嘆き侍るめる」と聞え給ふ。さればよ、とおぼさる。

2.(源氏)「あやしき事なれど、幼き御後見におぼすべく、

テキスト・161頁15行目より

 (源氏)「あやしき事なれど、幼き御後見におぼすべく、聞え給ひてむや。思ふ心ありて、行きかゝづらふ方も侍りながら、よに心のしまぬにやあらむ、独住(ひとりずみ)にてのみなむ。また似げなき程と、常の人におぼしなずらへて、はしたなくや」など宣へば、(僧都)「いとうれしかるべきおほせ言なるを、まだむげにいはけなき程に侍るめれば、戯(たはぶれ)にても御覧じ難くや。そもそも女人は人にもてなされて、おとなにもなり給ふものなれば、委しくはえとり申さず。かの祖母に語らひ侍りて聞えさせむ」とすくよかに言ひて、ものごはき様し給へれば、若き御心にはづかしくて、えよくも聞え給はず。(僧都)「阿弥陀(あみだ)仏(ほとけ)ものし給ふ堂に、する事侍る頃になむ。初夜(そや)未だ勤め侍らず。すぐして侍(さぶら)はむ」とて、のぼり給ひぬ。

3.君は心地もいとなやましきに、雨すこしうちそゝぎ、

テキスト・162頁8行目より

 君は心地もいとなやましきに、雨すこしうちそゝぎ、山風ひやゝかに吹きたるに、滝のよどみも勝(まさ)りて、音高う聞ゆ。すこしねぶたげなる読経の、絶え絶えすごく聞ゆるなど、すゞろなる人も、所がらものあはれなり。まして、おぼしめぐらす事多くて、まどろまれ給はず。初夜と言ひしかども、夜もいたう更けにけり。内にも、人の寝ぬけはひしるくて、いと忍びたれど、数珠の脇息にひきならさるゝ音ほの聞え、なつかしううちそよめく音なひ、あてはかなり、と聞き給ひて、程もなく近ければ、外(と)に立てわたしたる屏風の中を、すこしひき開(あ)けて、扇をならし給へば、覚えなきこゝちすべかめれど、聞き知らぬやうにや、とてゐざり出づる人あなり。すこししぞきて、(女房)「あやし。ひが耳にや」とたどるを聞き給ひて、(源氏)「仏の御しるべは、暗きに入りても、更に違(たが)ふまじかなるものを」と宣ふ御声の、いと若うあてなるに、うち出でむ声(こわ)づかひもはづかしけれど、(女房)「いかなる方の御しるべにかは。おぼつかなく」と聞ゆ。

4.(源氏)「げに、うちつけなり、とおぼめき給はむも道理なれど、

テキスト・163頁3行目より

(源氏)「げに、うちつけなり、とおぼめき給はむも道理(ことわり)なれど、
 
  はつ草の若葉のうへを見つるより旅寝の袖も露ぞかわかぬ


と聞え給ひてむや」と宣ふ。
 (女房)「更にかやうの御消息、承り分くべき人もものし給はぬ様は、知ろしめしたりげなるを。誰にかは」と聞ゆ。(源氏)「自(おのづか)らさるやうありて聞ゆるならむと思ひなし給へかし」と宣へば、入りて聞ゆ。


5.「あな、今めかし。この君や、世づいたる程におはするとぞ思すらむ。

テキスト・163頁9行目より

「あな、今めかし。この君や、世づいたる程におはするとぞ思すらむ。さるにては、かの若草を、いかで聞い給へることぞ」と、さまざまあやしきに、心乱れて、久しうなればなさけなし、とて、


 (尼君)「枕ゆふ今宵(こよひ)ばかりの露けさを深山(みやま)の苔(こけ)にくらべざらなむ


ひがたう侍るものを」と聞え給ふ。



6.(源氏)「かうやうの人伝なる御消息は、まだ更に聞え知らず、

テキスト・163頁15行目より

 (源氏)「かうやうの人伝(づて)なる御消息は、まだ更に聞え知らず、ならはぬ事になむ。かたじけなくとも、かゝるついでに、まめまめしう聞えさすべき事なむ」と聞え給へれば、尼君「ひがごと聞き給へるならむ。いとはづかしき御けはひに、何事をかはいらへ聞えむ」と宣へば、「はしたなうもこそ思せ」と人々聞ゆ。(尼君)「げに若やかなる人こそうたてもあらめ。まめやかに宣ふ、かたじけなし」とて、ゐざり寄り給へり。

7.(源氏)「うちつけに浅はかなりと御覧ぜられぬべきついでなれど、

テキスト・164頁6行目より

 (源氏)「うちつけに浅はかなりと御覧ぜられぬべきついでなれど、心にはさも覚え侍らねば、仏は自ら」とておとなおとなしう恥づかしげなるにつゝまれて、とみにもえうち出で給はず。  

8.(尼君)「げに思ひ給へより難きついでに、かくまで宣はせ聞えさするも、

テキスト・164頁8行目より

(尼君)「げに思ひ給へより難きついでに、かくまで宣はせ聞えさするも、あさくはいかゞ」と宣ふ。(源氏)あはれに承る御有様を、かの過ぎ給ひにけむ御かはりに、思しないてむや。いふかひなき程のよはひにて、むつまじかるべき人にも、立ちおくれ侍りにければ、あやしう浮きたるやうにて、年月(としつき)をこそ重(かさ)ね侍れ。同じ様にものし給ふなるを、たぐひになさせ給へ、と、いと聞えまほしきを、かゝる折り侍り難くてなむ、思されむ所をも憚らず、うち出で侍りぬる」と聞え給へば、(尼君)「いと嬉しう思ひ給へぬべき御事ながらも、聞召(きこしめ)しひがめたる事などや侍らむ、とつゝましうなむ。あやしき身ひとつを、たのもし人にする人なむ侍れど、いとまだいふかひなき程にて、御覧じ許さるゝ方も侍り難ければ、えなむ承りとゞめられざりける」と宣ふ。(源氏)「みなおぼつかなからず承り侍るものを、所狭(せ)ふ思し憚らで、思ひ給へよる様(さま)、殊(こと)なる心の程を、御覧ぜよ」と聞え給へど、いと似げなき事を、さも知らで宣ふ、と思して、心とけたる御いらへもなし。僧都おはしぬれば、(源氏)「よし。かう聞えそめ侍りぬれば、いと頼もしうなむ」とて、おしたて給ひつ。

9.暁方になりにければ、法華三昧おこなふ堂の懺法の声、

テキスト・165頁6行目より

暁方(あかつきがた)になりにければ、法華三昧おこなふ堂の懺法(せんぽふ)の声、山おろしにつきて聞えくる、いと尊く、滝の音に響き合ひたり。

 (源氏)「吹き迷ふみ山おろしに夢さめて涙もよほす滝の音かな」


 (僧都)「さしぐみに袖ぬらしける山水にすめる心は騒ぎやはする


耳なれ侍りにけりや」と聞え給ふ。


10.明け行く空はいといたう霞みて、山の鳥どもそこはかとなく囀り合ひたり。

テキスト・165頁11行目より

 明け行く空はいといたう霞みて、山の鳥どもそこはかとなく囀(さへづ)り合ひたり。名も知らぬ木草の花ども、いろいろに散り交(まじ)り、錦を敷けると見ゆるに、鹿(しか)のたゝずみ歩くもめづらしく見給ふに、悩ましさも紛れ果てぬ。ひじり、動きもえせねど、とかうして護身参らせ給ふ。かれたる声の、いといたうすきひがめるも、あはれに功(ぐう)づきて、陀羅尼よみたり。

 

11.御迎への人々参りて、おこたり給へる喜び聞え、

テキスト・166頁1行目より

 御迎への人々参りて、おこたり給へる喜び聞え、内よりも御とぶらひあり。僧都、世に見えぬさまの御くだもの、なにくれと、谷の底まで堀り出で、営み聞え給ふ。(僧都)「今年ばかりの誓ひ深う侍りて、御送りにもえ参り侍るまじき事、なかなかにも思ひ給へらるべきかな」など聞え給ひて、おほみき参り給ふ。(源氏)「山水に心とまり侍りぬれど、内よりおぼつかながらせ給へるも、かしこければなむ。今、此の花の折り過ぐさず参り来む。

  宮人に行きて語らむ山桜風より先に来ても見るべく」


と宣ふ御もてなし、声づかひさへ、目もあやなるに、


 (僧都)「優曇華(うどんげ)の花待ち得たる心地して深山桜(みやまざくら)に目こそ移らね」


と聞え給へば、ほゝゑみて、(源氏)「時ありて一度(ひとたび)開くなるは、難(かた)かなるものを」と宣ふ。ひじり、御かはらけ賜はりて、


 (聖)「奥山の松のとぼそをまれに開(あ)けてまだ見ぬ花の顔を見るかな」


と、うち泣きて見奉る。


12.ひじり、御まもりに独鈷(とこ)奉る。

テキスト・166頁13行目より

ひじり、御まもりに独鈷(とこ)奉る。見給ひて、僧都、聖徳太子の百済(くだら)より得給へりける金剛子の数珠の、玉の装束(さうそく)したる、やがてその国より入れたる箱の唐(から)めいたるを、透きたる袋に入れて、五葉の枝につけて、紺瑠璃の壺どもに、御薬ども入れて、藤(ふぢ)桜などにつけて、所につけたる御贈り物ども、さゝげ奉り給ふ。君、聖(ひじり)よりはじめ、読経しつる法師の布施(ふせ)ども、まうけの物ども、様々に取りに遣(つかは)したりければ、そのわたりの山がつまで、さるべき物ども賜ひ、御誦経などして出で給ふ。


13.うちに僧都入り給ひて、かの聞え給ひし事まねび聞え給へど、

テキスト・167頁7行目より

 うちに僧都入り給ひて、かの聞え給ひし事まねび聞え給へど、(尼君)「ともかうも唯今は聞えむかたなし。もし御心ざしあらば、いま四五年を過ぐしてこそは、ともかうも」と宣へば、さなむ、と、同じさまにのみあるを、ほいなしとおぼす。御消息、僧都のもとなる小さき童(わらは)して、

 (源氏)「夕まぐれほのかに花の色を見てけさは霞の立ちぞわづらふ」


 御返し


 (尼君)「まことにや花のあたりは立ち憂きと霞むる空の気色をも見む」


と、よしある手のいとあてなるを、うち捨て書い給へり。