源氏物語講座


 

目次
1. 日もいと永きに、つれづれなれば、夕暮のいたう霞みたるに紛(まぎ)れて、
2. 清げなるおとな二人ばかり、さては童女ぞ出で入り遊ぶ。
3. (尼君)「何事ぞや、童女と腹立ち給へるか」とて、
4. 尼君「いで、あな幼なや。言ふかひなうものし給ふかな。
5. つらつきいとらうたげにて、眉のわたりうちけぶり、
6. 尼君、髪をかき撫でつゝ、「けづる事をもうるさがり給へど、
7. と聞ゆる程に、僧都あなたより来て、(僧都)「こなたはあらはにや侍らむ。
8. 「あはれなる人を見つるかな。かゝればこの好きものどもは、
9. うち臥し給へるに、僧都の御弟子、惟光を呼び出でさす。
10. すなはち僧都参り給へり。法師なれど、いと心はづかしく、
11. げにいと心殊に由ありて、同じ木草をも植ゑなし給へり。
12. 僧都、世の常なき御物語、後の世の事など聞え知らせ給ふ。
13. (源氏)「かの大納言の御むすめ、ものし給ふと聞き給へしは。
14. さらばその子なりけり、と、おぼし合はせつ。


1.日もいと永きに、つれづれなれば、夕暮のいたう霞みたるに紛(まぎ)れて、

テキスト・155頁14行目より


 日もいと永きに、つれづれなれば、夕暮のいたう霞みたるに紛(まぎ)れて、かの小柴垣(こしばがき)のもとに立ち出で給ふ。人々は帰し給ひて、惟光ばかり御供にて、のぞき給へば、ただこの西面(にしおもて)にしも、持仏すゑ奉りて、行ふ尼なりけり。簾少し上げて、花奉るめり。中の柱に寄りゐて、脇息のうへに経を置きて、いとなやましげに読み居たる尼君、たゞ人と見えず、四十余ばかりにて、いと白うあてに、痩(や)せたれど、つらつきふくらかに、まみのほど、髪の美しげにそがれたる末も、なかなか長きよりもこよなう今めかしき物かな、とあはれに見給ふ。


2.清げなるおとな二人ばかり、さては童女ぞ出で入り遊ぶ。

テキスト・156頁6行目より

 清げなるおとな二人ばかり、さては童女(わらはべ)ぞ出で入り遊ぶ。中に、十ばかりにやあらむと見えて、白き衣(きぬ)、山吹などのなれたる着て、走り来たる女ご、あまた見えつる子供に似るべうもあらず、いみじく生ひ先見えて、美しげなるかたちなり。髪は、扇を広げたるやうに、ゆらゆらとして、顔はいと赤くすりなして立てり。

3.(尼君)「何事ぞや、童女(わらはべ)と腹立ち給へるか」とて、

テキスト・156頁11行目より

 (尼君)「何事ぞや、童女(わらはべ)と腹立ち給へるか」とて、尼君の見上げたるに、すこし覚えたる所あれば、子なめりと見給ふ。(女児)「雀の子をいぬきが逃がしつる。ふせごのうちに籠(こ)めたりつるものを」とて、いと口惜しと思へり。此(こ)の居たるおとな、「例の、心なしの、かゝるわざをして、さいなまるゝこそ、いと心づきなけれ。いづかたへか罷(まか)りぬる。いとをかしうやうやうなりつるものを。烏(からす)などもこそ見つくれ」とて立ちて行く。髪ゆるゝかにいと長く、めやすき人なめり。少納言の乳母(めのと)とぞ人言ふめるは、この子の後見なるべし。


4.尼君「いで、あな幼なや。言ふかひなうものし給ふかな。

テキスト・157頁1行目より

 尼君「いで、あな幼なや。言ふかひなうものし給ふかな。おのが斯(か)くけふあすにおぼゆる命をば、何ともおぼしたらで、雀慕ひ給ふほどよ。罪得る事ぞと常に聞ゆるを、心憂く」とて、「こちや」と言へば、ついゐたり。

5.つらつきいとらうたげにて、眉のわたりうちけぶり、

テキスト・157頁3行目より

つらつきいとらうたげにて、眉のわたりうちけぶり、いはけなくかいやりたる額(ひたい)つき、かんざし、いみじううつくし。ねびゆかむさまゆかしき人かなと目とまり給ふ。さるは、限りなう心をつくし聞ゆる人に、いとよう似奉れるがまもらるゝなりけり、と思ふにも、涙ぞ落つる。


6.尼君、髪をかき撫でつゝ、「けづる事をもうるさがり給へど、

テキスト・157頁8行目より

 尼君、髪をかき撫でつゝ、「けづる事をもうるさがり給へど、をかしの御ぐしや。いとはかなうものし給ふこそ、あはれにうしろめたけれ。かばかりになれば、いとかゝらぬ人もあるものを。故姫君は、十ばかりにて殿におくれ給ひしほど、いみじう物は思ひ知り給へりしぞかし。唯今おのれ見棄て奉らば、いかに世におはせむとすらむ」とて、いみじく泣くを見給ふも、すゞろに悲し。幼なごゝちにも、さすがにうちまもりて、伏目(ふしめ)になりてうつぶしたるに、こぼれかゝりたる髪つやつやとめでたう見ゆ。


 (尼君)「おひ立たむありかも知らぬ若草をおくらす露ぞ消えむ空なき」

 また居たるおとな、「げに」とうち泣きて、
 (女房)「初草のおひ行く末も知らぬ間にいかでか露の消えむとすらむ」

7.と聞ゆる程に、僧都あなたより来て、(僧都)「こなたはあらはにや侍らむ。

テキスト・158頁2行目より

と聞ゆる程に、僧都あなたより来て、(僧都)「こなたはあらはにや侍らむ。けふしも端におはしましけるかな。この上(かみ)の聖の方に、源氏の中将の、わらはやみまじなひにものし給ひけるを、只今なむ聞きつけ侍る。いみじうしのび給ひければ、知り侍らで、こゝに侍りながら、御とぶらひにもまうでざりける」と宣へば、(尼君)「あないみじや、いとあやしき様を人や見つらむ」とて、簾おろしつ。(僧都)「この世にののしり給ふ光る源氏、かゝるついでに見奉り給はむや。世を棄てたる法師の心地にも、いみじう世の愁(うれへ)忘れ、よはひのぶる人の御有様なり。いで御消息聞えむ」とて立つ音すれば、帰り給ひぬ。

8.「あはれなる人を見つるかな。かゝればこの好きものどもは、

テキスト・158頁11行目より

 「あはれなる人を見つるかな。かゝればこの好きものどもは、かゝるありきをのみして、よくさるまじき人をも見つくるなりけり。たまさかに立ち出づるだに、かく思ひの外なる事を見るよ」と、をかしうおぼす。「さても、いとうつくしかりつるちごかな。なに人ならむ。かの人の御かはりに、明け暮れの慰めにも見ばや」と思ふ心、深うつきぬ。

9.うち臥し給へるに、僧都の御弟子、惟光を呼び出でさす。

テキスト・158頁16行目より

 うち臥(ふ)し給へるに、僧都の御弟子、惟光を呼び出でさす。ほどなき所なれば、君もやがて聞き給ふ。(僧都)「過(よぎ)りおはしましける由、唯今なむ人申すに、驚きながら候(さぶら)ふべきを、なにがしこの寺に籠り侍りとはしろしめしながら、忍びさせ給へるを、憂はしく思ひ給へてなむ。草の御むしろも、この坊にこそまうけ侍るべけれ。いと本意なきこと」と申し給へり。(源氏)「いぬる十よ日の程より、わらはやみにわづらひ侍るを、度重なりて堪(た)へ難く侍れば、人の教へのまゝ、にはかに尋ね入り侍りつれど、かやうなる人の、しるしあらはさぬ時、はしたなかるべきも、たゞなるよりはいとほしう思ひ給へつゝみてなむ、いたう忍び侍りつる。今そなたにも」と宣へり。

10.すなはち僧都参り給へり。法師なれど、いと心はづかしく、

テキスト・159頁9行目より

 すなはち僧都参り給へり。法師なれど、いと心はづかしく、人がらもやんごとなく、世に思はれ給へる人なれば、軽々しき御有様を、はしたなうおぼす。かく籠れる程の御物語など聞え給ひて、(僧都)「同じ柴(しば)の庵(いほり)なれど、すこし涼しき水の流れも御覧ぜさせむ」と、切(せち)に聞え給へば、かのまだ見ぬ人々に、ことごとしう言ひ聞かせつるを、つつましうおぼせど、あはれなりつる有様もいぶかしうて、おはしぬ。

11.げにいと心殊に由ありて、同じ木草をも植ゑなし給へり。

テキスト・159頁15行目より

 げにいと心殊に由ありて、同じ木草をも植ゑなし給へり。月もなき頃なれば、遣水(やりみず)に篝火(かがりび)ともし、灯籠(とうろう)などにも参りたり。南面(みなみおもて)いと清げにしつらひ給へり。そらだきもの心にくゝ薫り出(い)で、名香(みやうがう)の香などにほひ満ちたるに、君の御追ひ風いとことなれば、内の人々も心づかひすべかめり。

12.僧都、世の常なき御物語、後の世の事など聞え知らせ給ふ。

テキスト・160頁3行目より

 僧都、世の常なき御物語、後の世の事など聞え知らせ給ふ。「我が罪の程恐ろしう、あぢきなき事に心をしめて、生ける限り、これを思ひなやむべきなめり。まして後の世のいみじかるべき」おぼし続けて、かうやうなるすまひもせまほしう覚え給ふものから、昼の面影(おもかげ)心にかゝりて恋しければ、(源氏)「こゝにものし給ふは誰にか。尋ね聞えまほしき夢を見給へしかな。今日なむ思ひ合はせつる」と聞え給へば、うち笑ひて、(僧都)「うちつけなる御夢語りにぞ侍るなる。尋ねさせ給ひても、御心劣りせさせ給ひぬべし。故按察使大納言は、世になくて久しくなり侍りぬれば、え知ろしめさじかし。その北の方なむ、なにがしが妹(いもうと)に侍る。かの按察使かくれて後、世をそむきて侍るが、此の頃わづらふ事侍るにより、かく京にもまかでねば、たのもし所に籠りてものし侍るなり」と聞え給ふ。

13.(源氏)「かの大納言の御むすめ、ものし給ふと聞き給へしは。

テキスト・160頁14行目より

 (源氏)「かの大納言の御むすめ、ものし給ふと聞き給へしは。すきずきしき方にはあらで、まめやかに聞ゆるなり」と、おしあてに宣へば、(僧都)「娘たゞ一人侍りし。亡(う)せて此の十よ年にやなり侍りぬらむ。故大納言、内に奉らむなど、かしこういつき侍りしを、その本意のごとくもものし侍らで、過ぎ侍りにしかば、たゞこの尼君一人もてあつかひ侍りし程に、いかなる人のしわざにか、兵部卿の宮なむ、忍びて語らひつき給へりけるを、もとの北の方、やむごとなくなどして、やすからぬ事多くて、明け暮れ物を思ひてなむ、なくなり侍りにし。物思ひにやまひづくものと、目に近く見給へし」など申し給ふ。

14.さらばその子なりけり、と、おぼし合はせつ。

テキスト・161頁6行目より

 さらばその子なりけり、と、おぼし合はせつ。御子の御筋にて、かの人にも通ひ聞えたるにや、と、いとゞあはれに、見まほし。人の程もあてにをかしう、なかなかのさかしら心なく、うち語らひて、心のまゝに教へおほし立てて見ばや、とおぼす。