目次
1.白きあはせ、うす色のなよゝかなるを重ねて、
2.明けがたも近うなりにけり。
3.(君)「かれ聞き給へ。
4. いさよふ月に、ゆくりなくあくがれむ事を、
5. (君)「まだ、かやうなる事を慣らはざりつるを、
6. ほのぼのと物見ゆるほどに降り給ひぬめり。
7. 日たくるほどに起き給ひて、
8. 顔はなほ隠し給へれど、女のいとつらしと思へれば、
9. げに、うちとけ給へるさま、世になく、
1.白きあはせ、うす色のなよゝかなるを重ねて、

テキスト・121頁5行目より


 白き袷、薄色のなよよかなるを重ねて、はなやかならぬ姿、いとらうたげにあえかなる心地して、そこと取り立ててすぐれたることもなけれど、細やかにたをたをとして、ものうち言ひたるけはひ、「あな、心苦し」と、ただいとらうたく見ゆ。心ばみたる方をすこし添へたらば、と見たまひながら、なほうちとけて見まほしく思さるれば、


 「いざ、ただこのわたり近き所に、心安くて明かさむ。かくてのみは、いと苦しかりけり」とのたまへば、


 「いかでか。にはかならむ」


 と、いとおいらかに言ひてゐたり。この世のみならぬ契りなどまで頼めたまふに、うちとくる心ばへなど、あやしくやう変はりて、世馴れたる人ともおぼえねば、人の思はむ所もえ憚りたまはで、右近を召し出でて、随身を召させたまひて、御車引き入れさせたまふ。このある人びとも、かかる御心ざしのおろかならぬを見知れば、おぼめかしながら、頼みかけきこえたり。

2.明けがたも近うなりにけり。

テキスト・122頁1行目より

 明け方も近うなりにけり。鶏の声などは聞こえで、御嶽精進にやあらむ、ただ翁びたる声にぬかづくぞ聞こゆる。起ち居のけはひ、堪へがたげに行ふ。いとあはれに、「朝の露に異ならぬ世を、何を貧る身の祈りにか」と、聞きたまふ。「南無当来導師」とぞ拝むなる。

3.(君)「かれ聞き給へ。

テキスト・122頁4行目より

 「かれ、聞きたまへ。この世とのみは思はざりけり」と、あはれがりたまひて、


 「優婆塞が行ふ道をしるべにて
  来む世も深き契り違ふな」


 長生殿の古き例はゆゆしくて、翼を交さむとは引きかへて、弥勒の世をかねたまふ。行く先の御頼め、いとこちたし。


 「前の世の契り知らるる身の憂さに
  行く末かねて頼みがたさよ」

 かやうの筋なども、さるは、心もとなかめり。

4.いさよふ月に、ゆくりなくあくがれむ事を、

テキスト・122頁11行目より

 いさよふ月に、ゆくりなくあくがれむことを、女は思ひやすらひ、とかくのたまふほど、にはかに雲隠れて、明け行く空いとをかし。はしたなきほどにならぬ先にと、例の急ぎ出でたまひて、軽らかにうち乗せたまへれば、右近ぞ乗りぬる。


 そのわたり近きなにがしの院におはしまし着きて、預り召し出づるほど、荒れたる門の忍ぶ草茂りて見上げられたる、たとしへなく木暗し。霧も深く、露けきに、簾をさへ上げたまへれば、御袖もいたく濡れにけり。

5.(君)「まだ、かやうなる事を慣らはざりつるを、

テキスト・123頁3行目より

 「まだかやうなることを慣らはざりつるを、心尽くしなることにもありけるかな。


  いにしへもかくやは人の惑ひけむ
  我がまだ知らぬしののめの道


 慣らひたまへりや」


 とのたまふ。女、恥ぢらひて、


 「山の端の心も知らで行く月は
  うはの空にて影や絶えなむ
 心細く」


 とて、もの恐ろしうすごげに思ひたれば、「かのさし集ひたる住まひの慣らひならむ」と、をかしく思す。

 御車入れさせて、西の対に御座などよそふほど、高欄に御車ひきかけて立ちたまへり。右近、艶なる心地して、来し方のことなども、人知れず思ひ出でけり。預りいみじく経営しありく気色に、この御ありさま知りはてぬ。

6.ほのぼのと物見ゆるほどに降り給ひぬめり。

テキスト・123頁14行目より

 ほのぼのと物見ゆるほどに、下りたまひぬめり。かりそめなれど、清げにしつらひたり。


 「御供に人もさぶらはざりけり。不便なるわざかな」とて、むつましき下家司にて、殿にも仕うまつる者なりければ、参りよりて、「さるべき人召すべきにや」など、申さすれど、


 「ことさらに人来まじき隠れ家求めたるなり。さらに心よりほかに漏らすな」と口がためさせたまふ。

 御粥など急ぎ参らせたれど、取り次ぐ御まかなひうち合はず。まだ知らぬことなる御旅寝に、「息長川」と契りたまふことよりほかのことなし。

7.日たくるほどに起き給ひて、

テキスト・124頁7行目より

 日たくるほどに起きたまひて、格子手づから上げたまふ。いといたく荒れて、人目もなくはるばると見渡されて、木立いとうとましくものふりたり。け近き草木などは、ことに見所なく、みな秋の野らにて、池も水草に埋もれたれば、いとけうとげになりにける所かな。別納の方にぞ、曹司などして、人住むべかめれど、こなたは離れたり。

 「けうとくもなりにける所かな。さりとも、鬼なども我をば見許してむ」とのたまふ。

8.顔はなほ隠し給へれど、女のいとつらしと思へれば、

テキスト・124頁13行目より

 顔はなほ隠したまへれど、女のいとつらしと思へれば、「げに、かばかりにて隔てあらむも、ことのさまに違ひたり」と思して、


 「夕露に紐とく花は玉鉾の
  たよりに見えし縁にこそありけれ
 露の光やいかに」


 とのたまへば、後目に見おこせて、


 「光ありと見し夕顔のうは露は
  たそかれ時のそら目なりけり」

 とほのかに言ふ。をかしと思しなす。

9.げに、うちとけ給へるさま、世になく、

テキスト・125頁3行目より

げに、うちとけたまへるさま、世になく、所から、まいてゆゆしきまで見えたまふ。


 「尽きせず隔てたまへるつらさに、あらはさじと思ひつるものを。今だに名のりしたまへ。いとむくつけし」


 とのたまへど、「海人の子なれば」とて、さすがにうちとけぬさま、いとあいだれたり。


 「よし、これも我からなめり」と、怨みかつは語らひ、暮らしたまふ。



岡野弘彦先生 源氏物語全講会 2001 (C)岡野弘彦・実践女子大学生活文化学科生活文化研究室