目次
1. 寝られ給はぬまゝには、(源氏)「われはかく人に憎まれても慣らはぬを、
2. 女も、「なみなみならずかたはらいたし」と思ふに、
3. 幼きこゝちに、「いかならむ折り」と、待ちわたるに、
4. ひんがしの妻戸に立て奉りて、われは南のすみのまより、
5. 燈、近うともしたり。
6. 髪はいとふさやかにて、長くはあらねど、
7. たとしへなく口おほひて、さやかにも見せねど、
8. にぎはゝしう、あいぎやうづき、をかしげなるを、
9. 見給ふ限りの人は、うちとけたるよなく、
10. わたどのの戸ぐちに寄りゐ給へり。
11. 碁うちはてつるにやあらむ、うちそよめくこゝちして、
12. この子も、「妹の御心は、たわむ所なく、
13. こたみは妻戸をたゝきて入る。みな人々しづまり寝にけり。
14. 女はさこそ忘れ給ふを嬉しきに思ひなせど、

1.寝られ給はぬまゝには、(源氏)「われはかく人に憎まれても慣らはぬを、

テキスト・94頁2行目より

 寝られたまはぬままには、「我は、かく人に憎まれてもならはぬを、今宵なむ、初めて憂しと世を思ひ知りぬれば、恥づかしくて、ながらふまじうこそ、思ひなりぬれ」などのたまへば、涙をさへこぼして臥したり。いとらうたしと思す。手さぐりの、細く小さきほど、髪のいと長からざりしけはひのさまかよひたるも、思ひなしにやあはれなり。あながちにかかづらひたどり寄らむも、人悪ろかるべく、まめやかにめざましと思し明かしつつ、例のやうにものたまひまつはさず。夜深う出でたまへば、この子は、いといとほしく、さうざうしと思ふ。

2.女も、「なみなみならずかたはらいたし」と思ふに、

テキスト・94頁9行目より

 女も、並々ならずかたはらいたしと思ふに、御消息も絶えてなし。思し懲りにけると思ふにも、「やがてつれなくて止みたまひなましかば憂からまし。しひていとほしき御振る舞ひの絶えざらむもうたてあるべし。よきほどに、かくて閉ぢめてむ」と思ふものから、ただならず、ながめがちなり。

 君は、心づきなしと思しながら、かくてはえ止むまじう御心にかかり、人悪ろく思ほしわびて、小君に、「いとつらうも、うれたうもおぼゆるに、しひて思ひ返せど、心にしも従はず苦しきを。さりぬべきをり見て、対面すべくたばかれ」とのたまひわたれば、わづらはしけれど、かかる方にても、のたまひまつはすは、うれしうおぼえけり。

3.幼きこゝちに、「いかならむ折り」と、待ちわたるに、

テキスト・95頁5行目より

 幼き心地に、いかならむ折と待ちわたるに、紀伊守国に下りなどして、女どちのどやかなる夕闇の道たどたどしげなる紛れに、わが車にて率てたてまつる。


 この子も幼きを、いかならむと思せど、さのみもえ思しのどむまじければ、さりげなき姿にて、門など鎖さぬ先にと、急ぎおはす。

 人見ぬ方より引き入れて、降ろしたてまつる。童なれば、宿直人などもことに見入れ追従せず、心やすし。

4.ひんがしの妻戸に立て奉りて、われは南のすみのまより、

テキスト・95頁11行目より

 東の妻戸に、立てたてまつりて、我は南の隅の間より、格子叩きののしりて入りぬ。御達、


 「あらはなり」と言ふなり。


 「なぞ、かう暑きに、この格子は下ろされたる」と問へば、


 「昼より、西の御方の渡らせたまひて、碁打たせたまふ」と言ふ。


 さて向かひゐたらむを見ばや、と思ひて、やをら歩み出でて、簾のはさまに入りたまひぬ。

 この入りつる格子はまだ鎖さねば、隙見ゆるに、寄りて西ざまに見通したまへば、この際に立てたる屏風、端の方おし畳まれたるに、紛るべき几帳なども、暑ければにや、うち掛けて、いとよく見入れらる。

5.燈、近うともしたり。

テキスト・96頁3行目より

 火近う灯したり。母屋の中柱に側める人やわが心かくると、まづ目とどめたまへば、濃き綾の単衣襲なめり。何にかあらむ表に着て、頭つき細やかに小さき人の、ものげなき姿ぞしたる。顔などは、差し向かひたらむ人などにも、わざと見ゆまじうもてなしたり。手つき痩せ痩せにて、いたうひき隠しためり。

 いま一人は、東向きにて、残るところなく見ゆ。白き羅の単衣襲、二藍の小袿だつもの、ないがしろに着なして、紅の腰ひき結へる際まで胸あらはに、ばうぞくなるもてなしなり。いと白うをかしげに、つぶつぶと肥えて、そぞろかなる人の、頭つき額つきものあざやかに、まみ口つき、いと愛敬づき、はなやかなる容貌なり。

6.髪はいとふさやかにて、長くはあらねど、

テキスト・96頁12行目より

髪はいとふさやかにて、長くはあらねど、下り端、肩のほどきよげに、すべていとねぢけたるところなく、をかしげなる人と見えたり。


 むべこそ親の世になくは思ふらめと、をかしく見たまふ。心地ぞ、なほ静かなる気を添へばやと、ふと見ゆる。かどなきにはあるまじ。碁打ち果てて、結さすわたり、心とげに見えて、きはぎはとさうどけば、奥の人はいと静かにのどとめて、


 「待ちたまへや。そこは持にこそあらめ。このわたりの劫をこそ」など言へど、

 「いで、このたびは負けにけり。隅のところ、いでいで」と指をかがめて、「十、二十、三十、四十」などかぞふるさま、伊予の湯桁もたどたどしかるまじう見ゆ。すこし品おくれたり。

7.たとしへなく口おほひて、さやかにも見せねど、

テキスト・97頁4行目より

 たとしへなく口おほひて、さやかにも見せねど、目をしつけたまへれば、おのづから側目も見ゆ。目すこし腫れたる心地して、鼻などもあざやかなるところなうねびれて、にほはしきところも見えず。言ひ立つれば、悪ろきによれる容貌をいといたうもてつけて、このまされる人よりは心あらむと、目とどめつべきさましたり。

8.にぎはゝしう、あいぎやうづき、をかしげなるを、

テキスト・97頁9行目より

 にぎははしう愛敬づきをかしげなるを、いよいよほこりかにうちとけて、笑ひなどそぼるれば、にほひ多く見えて、さる方にいとをかしき人ざまなり。あはつけしとは思しながら、まめならぬ御心は、これもえ思し放つまじかりけり。

9.見給ふ限りの人は、うちとけたるよなく、

テキスト・97頁12行目より

 見たまふかぎりの人は、うちとけたる世なく、ひきつくろひ側めたるうはべをのみこそ見たまへ、かくうちとけたる人のありさまかいま見などは、まだしたまはざりつることなれば、何心もなうさやかなるはいとほしながら、久しう見たまはまほしきに、小君出で来る心地すれば、やをら出でたまひぬ。

10.わたどのの戸ぐちに寄りゐ給へり。

テキスト・98頁1行目より

 渡殿の戸口に寄りゐたまへり。いとかたじけなしと思ひて、


 「例ならぬ人はべりて、え近うも寄りはべらず」


 「さて、今宵もや帰してむとする。いとあさましう、からうこそあべけれ」とのたまへば、


 「などてか。あなたに帰りはべりなば、たばかりはべりなむ」と聞こゆ。


 「さもなびかしつべき気色にこそはあらめ。童なれど、ものの心ばへ、人の気色見つべくしづまれるを」と、思すなりけり。

11.碁うちはてつるにやあらむ、うちそよめくこゝちして、

テキスト・98頁7行目より

 碁打ち果てつるにやあらむ、うちそよめく心地して、人びとあかるるけはひなどすなり。


 「若君はいづくにおはしますならむ。この御格子は鎖してむ」とて、鳴らすなり。

 「静まりぬなり。入りて、さらば、たばかれ」とのたまふ。

12.この子も、「妹の御心は、たわむ所なく、

テキスト・98頁10行目より

 この子も、いもうとの御心はたわむところなくまめだちたれば、言ひあはせむ方なくて、人少なならむ折に入れたてまつらむと思ふなりけり。


 「紀伊守の妹もこなたにあるか。我にかいま見せさせよ」とのたまへど、


 「いかでか、さははべらむ。格子には几帳添へてはべり」と聞こゆ。


 さかし、されどもをかしく思せど、「見つとは知らせじ、いとほし」と思して、夜更くることの心もとなさをのたまふ。

13.こたみは妻戸をたゝきて入る。みな人々しづまり寝にけり。

テキスト・98頁16行目より

 こたみは妻戸を叩きて入る。皆人びと静まり寝にけり。


 「この障子口に、まろは寝たらむ。風吹きとほせ」とて、畳広げて臥す。御達、東の廂にいとあまた寝たるべし。戸放ちつる童もそなたに入りて臥しぬれば、とばかり空寝して、灯明かき方に屏風を広げて、影ほのかなるに、やをら入れたてまつる。


 「いかにぞ、をこがましきこともこそ」と思すに、いとつつましけれど、導くままに、母屋の几帳の帷子引き上げて、いとやをら入りたまふとすれど、皆静まれる夜の、御衣のけはひやはらかなるしも、いとしるかりけり。

14.女はさこそ忘れ給ふを嬉しきに思ひなせど、

テキスト・99頁8行目より

 女は、さこそ忘れたまふをうれしきに思ひなせど、あやしく夢のやうなることを、心に離るる折なきころにて、心とけたる寝だに寝られずなむ、昼はながめ、夜は寝覚めがちなれば、春ならぬ木の芽も、いとなく嘆かしきに、碁打ちつる君、「今宵は、こなたに」と、今めかしくうち語らひて、寝にけり。



岡野弘彦先生 源氏物語全講会 2001 (C)岡野弘彦・実践女子大学生活文化学科生活文化研究室