テキスト・83頁17行目より
「やや」とのたまふに、あやしくて探り寄りたるにぞ、いみじく匂ひみちて、顔にもくゆりかかる心地するに、思ひ寄りぬ。あさましう、こはいかなることぞと思ひまどはるれど、聞こえむ方なし。並々の人ならばこそ、荒らかにも引きかなぐらめ、それだに人のあまた知らむは、いかがあらむ。心も騷ぎて、慕ひ来たれど、動もなくて、奥なる御座に入りたまひぬ。
障子をひきたてて、「暁に御迎へにものせよ」とのたまへば、女は、この人の思ふらむことさへ、死ぬばかりわりなきに、流るるまで汗になりて、いと悩ましげなる、いとほしけれど、例の、いづこより取う出たまふ言の葉にかあらむ、あはれ知らるばかり、情け情けしくのたまひ尽くすべかめれど、なほいとあさましきに、
「現ともおぼえずこそ。数ならぬ身ながらも、思しくたしける御心ばへのほども、いかが浅くは思うたまへざらむ。いとかやうなる際は、際とこそはべなれ」
とて、かくおし立ちたまへるを、深く情けなく憂しと思ひ入りたるさまも、げにいとほしく、心恥づかしきけはひなれば、
「その際々を、まだ知らぬ、初事ぞや。なかなか、おしなべたる列に思ひなしたまへるなむうたてありける。