テキスト・81頁10行目より
「伊予介は、かしづくや。君と思ふらむな」
「いかがは。私の主とこそは思ひてはべるめるを、好き好きしきことと、なにがしよりはじめて、うけひきはべらずなむ」と申す。
「さりとも、まうとたちのつきづきしく今めきたらむに、おろしたてむやは。かの介は、いとよしありて気色ばめるをや」など、物語したまひて、
「いづかたにぞ」
「皆、下屋におろしはべりぬるを、えやまかりおりあへざらむ」と聞こゆ。
酔ひすすみて、皆人びと簀子に臥しつつ、静まりぬ。
[第三段 空蝉の寝所に忍び込む]
君は、とけても寝られたまはず、いたづら臥しと思さるるに御目覚めて、この北の障子のあなたに人のけはひするを、「こなたや、かくいふ人の隠れたる方ならむ、あはれや」と御心とどめて、やをら起きて立ち聞きたまへば、ありつる子の声にて、
「ものけたまはる。いづくにおはしますぞ」
と、かれたる声のをかしきにて言へば、
「ここにぞ臥したる。客人は寝たまひぬるか。いかに近からむと思ひつるを、されど、け遠かりけり」
と言ふ。寝たりける声のしどけなき、いとよく似通ひたれば、いもうとと聞きたまひつ。