目次
1. はじめに
2. (式部)「さていと久しくまからざりしに、
3. さすがに口とくなどは侍りき」と、しづしづと申せば、
4. (馬の頭)「すべて男も女も、わろ者は、
5. さるべき節会など、さつきの節に、急ぎ参るあした、
6. すべて、心に知れらむ事をも知らず顔にもてなし、
7. からうじて、今日は日のけしきもなほれり。
8. 暗くなる程に、(女房)「今宵なか神うちよりはふた塞がりて侍りけり」
9. 紀の守に仰せ言たまへば、うけたまはりながら、

1.はじめに


「烏滸(おこ)」について

「日本の物語には、あるいは神話の部分もそうですけれども、非常に高い神、あるいは清らかな神のすばらしいことを伝える部分は、もちろん大事なことは言うまでもありませんけれども、それだけではなくて、あらゆる点で優れた面を持っているはずの神が、またその反面で非常に烏滸(おこ)なることを演じてしまう。烏滸なる技を心ならずもやってしまう。そこが面白いんですね。」

2.(式部)「さていと久しくまからざりしに、

テキスト・74頁9行目より

 「さて、いと久しくまからざりしに、もののたよりに立ち寄りてはべれば、常のうちとけゐたる方にははべらで、心やましき物越しにてなむ逢ひてはべる。ふすぶるにやと、をこがましくも、また、よきふしなりとも思ひたまふるに、このさかし人はた、軽々しきもの怨じすべきにもあらず、世の道理を思ひとりて恨みざりけり。

 声もはやりかにて言ふやう、

 『月ごろ、風病重きに堪へかねて、極熱の草薬を服して、いと臭きによりなむ、え対面賜はらぬ。目のあたりならずとも、さるべからむ雑事らは承らむ』

 と、いとあはれにむべむべしく言ひはべり。答へに何とかは。ただ、『承りぬ』とて、立ち出ではべるに、さうざうしくやおぼえけむ、

 『この香失せなむ時に立ち寄りたまへ』と高やかに言ふを、聞き過ぐさむもいとほし、しばしやすらふべきに、はたはべらねば、げにそのにほひさへ、はなやかにたち添へるも術なくて、逃げ目をつかひて、

 『ささがにのふるまひしるき夕暮れに
  ひるま過ぐせといふがあやなさ
 いかなることつけぞや』

 と、言ひも果てず走り出ではべりぬるに、追ひて、

 『逢ふことの夜をし隔てぬ仲ならば
  ひる間も何かまばゆからまし』

3.さすがに口とくなどは侍りき」と、しづしづと申せば、

テキスト・75頁7行目より

 さすがに口疾くなどははべりき」


 と、しづしづと申せば、君達あさましと思ひて、「嘘言」とて笑ひたまふ。


 「いづこのさる女かあるべき。おいらかに鬼とこそ向かひゐたらめ。むくつけきこと」


 と爪弾きをして、「言はむ方なし」と、式部をあはめ憎みて、


 「すこしよろしからむことを申せ」と責めたまへど、


 「これよりめづらしきことはさぶらひなむや」とて、をり。

4.(馬の頭)「すべて男も女も、わろ者は、

テキスト・75頁13行目より

 「すべて男も女も悪ろ者は、わづかに知れる方のことを残りなく見せ尽くさむと思へるこそ、いとほしけれ。


 三史五経、道々しき方を、明らかに悟り明かさむこそ、愛敬なからめ、などかは、女といはむからに、世にあることの公私につけて、むげに知らずいたらずしもあらむ。わざと習ひまねばねど、すこしもかどあらむ人の、耳にも目にもとまること、自然に多かるべし。


 さるままには、真名を走り書きて、さるまじきどちの女文に、なかば過ぎて書きすすめたる、あなうたて、この人のたをやかならましかばと見えたり。心地にはさしも思はざらめど、おのづからこはごはしき声に読みなされなどしつつ、ことさらびたり。上臈の中にも、多かることぞかし。


 歌詠むと思へる人の、やがて歌にまつはれ、をかしき古言をも初めより取り込みつつ、すさまじき折々、詠みかけたるこそ、ものしきことなれ。返しせねば情けなし、えせざらむ人ははしたなからむ。

5.さるべき節会など、さつきの節に、急ぎ参るあした、

テキスト・76頁10行目より

 さるべき節会など、五月の節に急ぎ参る朝、何のあやめも思ひしづめられぬに、えならぬ根を引きかけ、九日の宴に、まづ難き詩の心を思ひめぐらして暇なき折に、菊の露をかこち寄せなどやうの、つきなき営みにあはせ、さならでもおのづから、げに後に思へばをかしくもあはれにもあべかりけることの、その折につきなく、目にとまらぬなどを、推し量らず詠み出でたる、なかなか心後れて見ゆ。


 よろづのことに、などかは、さても、とおぼゆる折から、時々、思ひわかぬばかりの心にては、よしばみ情け立たざらむなむ目やすかるべき。

6.すべて、心に知れらむ事をも知らず顔にもてなし、

テキスト・77頁1行目より

 すべて、心に知れらむことをも、知らず顔にもてなし、言はまほしからむことをも、一つ二つのふしは過ぐすべくなむあべかりける」


 と言ふにも、君は、人一人の御ありさまを、心の中に思ひつづけたまふ。「これに足らずまたさし過ぎたることなくものしたまひけるかな」と、ありがたきにも、いとど胸ふたがる。


 いづ方により果つともなく、果て果てはあやしきことどもになりて、明かしたまひつ。


7.からうじて、今日は日のけしきもなほれり。

テキスト・77頁7行目より

 からうして今日は日のけしきも直れり。かくのみ籠もりさぶらひたまふも、大殿の御心いとほしければ、まかでたまへり。


 おほかたの気色、人のけはひも、けざやかにけ高く、乱れたるところまじらず、なほ、これこそは、かの、人びとの捨てがたく取り出でしまめ人には頼まれぬべけれ、と思すものから、あまりうるはしき御ありさまの、とけがたく恥づかしげに思ひしづまりたまへるをさうざうしくて、中納言の君、中務などやうの、おしなべたらぬ若人どもに、戯れ言などのたまひつつ、暑さに乱れたまへる御ありさまを、見るかひありと思ひきこえたり。


 大臣も渡りたまひて、うちとけたまへれば、御几帳隔てておはしまして、御物語聞こえたまふを、「暑きに」とにがみたまへば、人びと笑ふ。「あなかま」とて、脇息に寄りおはす。いとやすらかなる御振る舞ひなりや。

8.暗くなる程に、(女房)「今宵なか神うちよりはふた塞がりて侍りけり」

テキスト・78頁2行目より

 暗くなるほどに、
 「今宵、中神、内裏よりは塞がりてはべりけり」と聞こゆ。


 「さかし、例は忌みたまふ方なりけり」
 「二条の院にも同じ筋にて、いづくにか違へむ。いと悩ましきに」


 とて大殿籠もれり。「いと悪しきことなり」と、これかれ聞こゆ。


 「紀伊守にて親しく仕うまつる人の、中川のわたりなる家なむ、このころ水せき入れて、涼しき蔭にはべる」と聞こゆ。


 「いとよかなり。悩ましきに、牛ながら引き入れつべからむ所を」


 とのたまふ。忍び忍びの御方違へ所は、あまたありぬべけれど、久しくほど経て渡りたまへるに、方塞げて、ひき違へ他ざまへと思さむは、いとほしきなるべし。


9.紀の守に仰せ言たまへば、うけたまはりながら、

テキスト・78頁12行目より

紀伊守に仰せ言賜へば、承りながら、退きて、


 「伊予守の朝臣の家に慎むことはべりて、女房なむまかり移れるころにて、狭き所にはべれば、なめげなることやはべらむ」


 と、下に嘆くを聞きたまひて、


 「その人近からむなむ、うれしかるべき。女遠き旅寝は、もの恐ろしき心地すべきを。ただその几帳のうしろに」とのたまへば、


 「げに、よろしき御座所にも」とて、人走らせやる。いと忍びて、ことさらにことことしからぬ所をと、急ぎ出でたまへば、大臣にも聞こえたまはず、御供にも睦ましき限りしておはしましぬ。



岡野弘彦先生 源氏物語全講会 2001 (C)岡野弘彦・実践女子大学生活文化学科生活文化研究室