テキスト・68頁13行目より
男いたくめでて、簾のもとに歩み来て、
『庭の紅葉こそ、踏み分けたる跡もなけれ』などねたます。菊を折りて、
『琴の音も月もえならぬ宿ながら
つれなき人をひきやとめける
悪ろかめり』など言ひて、『今ひと声、聞きはやすべき人のある時、手な残いたまひそ』など、いたくあざれかかれば、女、いたう声つくろひて、
『木枯に吹きあはすめる笛の音を
ひきとどむべき言の葉ぞなき』
となまめき交はすに、憎くなるをも知らで、また、箏の琴を盤渉調に調べて、今めかしく掻い弾きたる爪音、かどなきにはあらねど、まばゆき心地なむしはべりし。ただ時々うち語らふ宮仕へ人などの、あくまでさればみ好きたるは、さても見る限りはをかしくもありぬべし。時々にても、さる所にて忘れぬよすがと思ひたまへむには、頼もしげなくさし過ぐいたりと心おかれて、その夜のことにことつけてこそ、まかり絶えにしか。