源氏物語と芸能論 〜「絵合」の巻・解説〜

目次
1. 夜明け方近くなるほどに、ものいとあはれに思されて、〔逐語訳〕
2. 源氏物語のなかの芸能論〔評釈〕
3. 折口信夫の芸能研究と「まれびと」〔評釈〕

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1.夜明け方近くなるほどに、ものいとあはれに思されて、




映像&音声
31分56秒

 

 夜明け方近くなるほどに、ものいとあはれに思されて、御土器(かはらけ)など参るついでに、昔の御物語ども出で来て、

 「いはけなきほどより、学問に心を入れてはべりしに、すこしも才(さえ)などつきぬべくや御覧じけむ、院ののたまはせしやう、『才学といふもの、世にいと重くするものなればにやあらむ、いたう進みぬる人の、命、幸ひと並びぬるは、いとかたきものになむ。品高く生まれ、さらでも人に劣るまじきほどにて、あながちにこの道な深く習ひそ』と、諌(いさ)めさせたまひて、本才の方々のもの教へさせたまひしに、つたなきこともなく、またとり立ててこのことと心得ることもはべらざりき。絵描くことのみなむ、あやしくはかなきものから、いかにしてかは心ゆくばかり描きて見るべきと、思ふ折々はべりしを、おぼえぬ山賤(やまがつ)になりて、四方(よも)の海の深き心を見しに、さらに思ひ寄らぬ隈なく至られにしかど、筆のゆく限りありて、心よりはことゆかずなむ思うたまへられしを、ついでなくて、御覧ぜさすべきならねば、かう好き好きしきやうなる、後の聞こえやあらむ」
 と、親王(みこ)に申したまへば、
 「何の才(ざえ)も、心より放ちて習ふべきわざならねど、道々に物の師あり、学(まね)び所あらむは、事の深さ浅さは知らねど、おのづから移さむに跡ありぬべし。筆取る道と碁打つこととぞ、あやしう魂(たましひ)のほど見ゆるを、深き労なく見ゆるおれ者も、さるべきにて、書き打つたぐひも出で来れど、家の子の中には、なほ人に抜けぬる人の、何ごとをも好み得けるとぞ見えたる。院の御前にて、親王(みこ)たち、内親王、いづれかは、さまざまとりどりの才(ざえ)習はさせたまはざりけむ。その中にも、とり立てたる御心に入れて、伝へ受けとらせたまへるかひありて、『文才(もんざい)をばさるものにて言はず、さらぬことの中には、琴(きん)弾かせたまふことなむ一(いち)の才(ざえ)にて、次には横笛(よこぶえ)、琵琶(びは)、箏(さう)の琴(こと)をなむ、次々に習ひたまへる』と、主上(うへ)も思しのたまはせき。世の人、しか思ひきこえさせたるを、絵はなほ筆のついでにすさびさせたまふあだこととこそ思ひたまへしか、いとかう、まさなきまで、いにしへの墨がきの上手ども、跡をくらうなしつべかめるは、かへりて、けしからぬわざなり」
 と、うち乱れて聞こえたまひて、酔(ゑ)ひ泣きにや、院の御こと聞こえ出でて、皆うちしほたれたまひぬ


2.源氏物語のなかの芸能論



映像&音声
20分9秒

 

・「ほぼ才学なし、和歌をよくす」(『三代実録』)――在原業平評

・漢才(からざえ)と大和魂(やまとごころ)

・平安貴族たちの「よきアマチュアリズム」――その懐の深さ

 「現在の我々の遊びという感覚とはかなり違う、もっともっと深くて広い遊び。結局、『遊び』というのは、魂を深く養う魂の遊び、あるいは優れた魂と響き合う心を持つ。そういう『遊び』、それから才の方は『学(まね)び』。つまり真似する。真似するところから才を身につけていくわけです。
 そんなふうに考えると、ここのところ、桐壺の帝の光源氏に対する訓戒の一番深い心のありようがくみ取れるだろうと思うんです。言ってあることの具体的なこと、それだけにとどまっていると、少しわからないというか、桐壺の帝の本心というものがなかなかくみ取れないところがあるんですけれども、日本の古来からの伝統的な魂の遊びというものが一番大事なのだ。漢才を学ぶことも貴族の教養としては大事だけれども、そういうことに専門家のように深く打ち込むということは、むしろ要らざることなんだというふうなことを諭していられる。それが当時の大貴族の理想なんだというふうに説いていられると思えば、ここの話はよくわかると思うんです。 」


3.折口信夫の芸能研究と「まれびと」



映像&音声
13分2秒

 

・山田孝雄著 『源氏物語の音楽』(宝文館出版)

・「音楽も、日本人の深い魂の遊びの一つなのだ」(折口信夫)

・日本人にとっての「芸能」とは何か ―折口信夫の芸能史講義―

・互いに影響を与え合った柳田国男と折口信夫

・「まれびと」論のヒントとなった台湾の『蛮族調査書』

 「漢才を専門にしている文章(もんじょう)博士とか漢学の博士とかいうものは、中古から中世の逸話集なんかにしょっちゅう出てきますでしょう。博士の、歌を詠んだりするときの下手くそな、あるいは全然見当外れの愚かさと、女房のそういう面での滑らか過ぎるほど滑らかな巧みさ。いつも博士の方が負けてしまって醜態をさらす。女房がしたり顔で「勝った」という顔をしている。あれは何か対照的な形ですね。あれはカリカチュアライズせられ、誇張化せられているわけですけれども、中世の逸話集でそういう形になっていく一つのもとは、大和魂は女性の方がより伝承していったわけです。漢才の方は男の方が専門に学(まね)びとっていったわけです。そういうものの対立ですね。 」




岡野弘彦先生 源氏物語全講会 2006 (C)岡野弘彦・財団法人エンゼル財団