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※以下の記述内容は、当日会場において配布された、今道先生のレジュメの内容を転載したものです。
また、レジュメの内容はPDF形式ファイルとしてもご覧いただけます。
今道先生
会場配布レジュメ(PDF形式ファイル・1.89MB)
1. 題について
具体的にはダンテの文学的主著『神曲』とトマス・アクィナスの神学的主著『神学大全』の比較研究の一端ともなろうし、キリスト教的文学とキリスト教的神学の相互関係の解明の一助ともなろうとする研究である。それはまた信仰の気圏において神学と詩とを結ぶ哲学の新しい課題への試みでもあろう。
2. 輝きという語について
天国はいかなる処かと想うとき、それは暗く閉ざされた処ではなく、輝き渡る自由なひろがりであると思うことができる。それは先ず輝きの場であり、それは光そのもの(神)ではなく神の輝きが照り渡るところである。
Danteは神を光源としてluceと呼び、例えば Par.ⅩⅩⅩⅢ.124 O
luce etterna(おお永遠の光源よ)と父なる神 創造主のことを呼び、come lume reflesso(友照の輝き、友照の光線)とPar.ⅩⅩⅩⅢ.128で子なる神キリスト子のことを述べているように、光源としての光 lux とその明りとしての光線としての光 lume、輝照としてのgloria (una
favilla sol della tua gloria 汝の栄光の輝照のただ一筋をだに.Par.XXXⅢ 71)とを明瞭に分けている。
私がここでダンテにおけるトマスの輝きとは、それゆえ、基本的にトマス・アクィナス(注)の光源から、その神学から、ダンテの栄光の光線としての輝きが放射されていることを明らかにしようという意図をもっていることは明らかである。しかし、そのことはトマスを原因とし、ダンテをそこから派生する結果のひとつとして見ることではない。ダンテの輝きは極めて独自的に現代を照らしている。
O
luce etterna che sola in te sidi, おお永遠(とわ)の光、自己存在で、
sola
t’intendi, e da te intelletta 自己認識をし、自(みずか)らを知れ
e
intendente te ami e arridi! 自(みずか)らの愛にほほえみたまう
天国篇33歌 124-126
ダンテがこう歌っているように、神は自らの基礎を自らにもち(汝のうちにのみ坐しており)、汝自らを知り、それゆえ自ら知られ、かくて充ち足りている汝自らを愛しほほえむ完全存在であるが、その次の歌に汝の照(てり)り反(かえ)しかとも思われる汝の生めるあの環(quella
circulazion)つまり子なる神キリストの輝きがなければ、その完全な絶対存在者の教えを人類に伝える者はいないことになる。キリストは神の教えをキリストの説教と行為と愛(口伝、行伝、心伝)で人びとに教えた。教会はそれを聖書にまとめ聖伝とともに人類に残した。トマスがしたことはそれらの教えの理性的証明や知的解釈である。『神学大全(summa
Theologiae)』はその成果である。かれはギリシアの知性アリストテレースを師とした。
ダンテは何をしたのか。ダンテはローマのヴェルギリウスを師とした。敗軍の将、挫折の身のAeneasをしてRomaを建てしめたVergilius(Virgilio)を師としたことは理性的証明や知的解釈の体系であるトマスの思想を、アリストテレースから解放し、想像(imaginatio)と詩(叙情詩 poesia
epica)でVergiliusがギリシア諸作品に対してローマ人のidentityのためにラテン語で書いたように、キリスト教会の知的人士のラテン語の著作に対し、当時俗語と言われていたイタリア語で、恋を失い、政治で失敗し、挫折の人となった自らを建て直すとともに、ボニファッチオ八世を始めとする法王(教皇)の堕落によって苦しむ教会を建て直すことを企図し、一般のイタリアの知識人に訴えかけようとした。それはトマスという知的光源からのダンテの新しい宣教の光線の輝きなのである。
(注)ダンテのトマス研究が実際にどういうものかはよく解ってはいない。古くはE.GilsonのDante et la philosophiaはひろく知られていた。今回は稲垣教授との対話もあるから、『トマス・アクィナス倫理学の研究』(1997)をトマス研究書として挙げる。
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