III.至高の光に於いて去ってゆく影
周知のようにダンテは地獄門を彼の千三百年も前に死者となったローマの大詩人ウェルギリウス(『神曲』の中ではイタリア語風にヴィルジリオ<Virgilio>と呼ばれる)とともに通過して死者たちの国である地獄と煉獄を経て遂にはベアトリイチェと天国にまでもいく。死後の世界で会う人びとはもとよりみな死者であるから影に過ぎない。霊はもち続け、したがって思考を声音とはちがう語で話す影に過ぎず、そこは闇や幽暗の世界である。喪服をまとうて影に生きやがて死者の世に去る宇治の大君の薫との愛には『神曲』を読みつづけたころ何かふしぎな影と愛とが抑現の美と相思の語らいの高雅なおもむきに於いて相通うものを予感していたものであったが、今日を機会にその一端をのべうることは大きなよろこびと言わざるをえない。
『神曲』天国篇第三十歌は至高天に近く、その四十九行から五十一行には
Cosi
mi circunfulse luce viva,
E lasciommi fasciato di tal velo
Del suo fulgor, che nulla m'appariva.
生ける輝きが私をかこみ
きらめく帷(おお)いで身を包むから
眩(まぶし)いあまりに何も見えない
喪服をまとう者や不浄の者が神事の祝典や朝廷の儀式のような晴れがましい明るさの場には行けなかったように神の聖光(みひかり)のみちるエムピリオ(天頂)の間近に入ろうとすると人はひととき正気を失うようなことがこれまでにもあった。どうしたらいいのか、この状況をどう解すべきかダンテは、すでに天国の近づいたころ、煉獄篇第三十歌でヴィルジリオが身を退き後の案内をベアトリイチェに託して去ったことなどもあり、ダンテは不安になったが、また感覚がもどり、その後千変万化の光の散華に迷い、結局どこを目あてに歩めばよいかわからず、
E
in nulla parte ancor fermato il viso
いまだどこへと目を定めえぬ
と天国篇三十一歌五十四行で歌った状況でもう一度ベアトリイチェに尋ねてみようと思う。
E
volgeami con voglia riaccesa
Per domandar la mia donna di cose,
Di che la mente mia era sospesa.
Uno
intendea, e altro mi rispose;
Credea veder Beatrice, e vidi un sene
Vestito con le genti gloriose. (Par. XXXI. 52-60)
こうして新たな望みに焼かれ
心に浮かんだ不安の事を
淑女にきこうとふり返ったが
私の期待と答えはちがい
見ようと思ったベアトリイチェの
代わりにいたのは白衣(ひゃくえ)の翁(おきな)
このような光の散華やエンピレオの豪華な美に心も定まらず、またしてもベアトリイチェに教わろうと頼みにしてふりかえったら、彼女の影はなくそこには一人の老師父、ベアトリイチェも行けない天国の至高の場を案内するために来た聖ベルナルドである。ベアトリイチェをなつかしむダンテが Ov'e
ella? (あの方はどこに?)と問うたのをあわれみ、彼女が「その功徳に応じてわりあてられた玉座にいる( Nel
trono che i suoi merti le sortiro )」( Par. XXXI. 69)とその居場所を丁寧に教えてくれた。ダンテがその方を見やるとかなり遠いけれどもよく見えたのではるかに語りかける、十二行の美しい詩、その最後の三行を見てみよう(Par.XXXI.88-90)
La
tua magnificenza in me custodi,
Si che l'anima mia, che fatt'hai sana,
Piacente a te dal corpo si disnodi.
あなたがいやしたこの魂が
あなたの華麗な力でいつか
肉のきずなから離れますよう
彼女の対応は次の様に書かれている。
Cosi
orai; e quella, si lontana
Come parea, sorrise e riguardommi;
Poi si torno all'etterna fontana.
私が告げると彼女は遠い
ところでほほえみ私を見つめ
やがて永遠の泉に向かう。
これら I. II. III. の省察から何が告げられるであろうか。
|