至高の文化の誕生 ダンテと地中海(樺山紘一)

至高の文化の誕生 ダンテと地中海(樺山紘一)

第2回 ダンテとルネサンス

講演 ダンテと地中海

day2_kabayama国立西洋美術館長・東京大学名誉教授
樺山紘一

 

 

はじめに


(再生時間 14分59秒)

・ドメニコ・ディ・ミケリーノが描いた「ダンテ、『神曲』の詩人」(1465年)
・フィレンツェ人自身によるルネサンス賛歌
「この作品は1465年に制作されたと申しましたけれども、実はその1465年という年はちょうどダンテ生誕200年に当たりました。フィレンツェ市及びサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂は、このフィレンツェの恩人であるダンテの生誕200年を祝って、この作品を画家ミケリーノに委嘱し、できあがったものをそこに飾ったと言われます。すでにそれから550年近く経ちました。
恐らく、このミケリーノの作品「ダンテ、『神曲』の詩人」が制作され、そこに飾られる以前にも、別な作品がそこにあったようでして、その主題、テーマもやはりダンテであったようですが、改めて1465年、生誕200年に際して、ダンテを記念すべく、フィレンツェ市民たちが恐らくあちこちで寄付、寄金を募りながら、この作品をミケリーノに委嘱し、制作してもらったに違いありません。 」

・遺骨はラヴェンナに。しかしミケリーノの絵によって故郷へ凱旋したダンテ
「…文字通りこれはダンテと「神曲」とフィレンツェと、この3つの密接な結びつきをこの絵に表現しました。そしてその後、現在に至るまで五百数十年間、フィレンツェの人々はいつもこの絵を見ながら、フィレンツェという町がダンテに負っている恩義の大きさを感じ続けたのです。フィレンツェは、一度ダンテに対して恩を忘れる忘恩を働きました。でも、すぐに、1465年の時点で「いや、待てよ。結局フィレンツェがいまあるその姿は、ダンテに負うところがきわめて大きい」ということを悟った、恐らくダンテを追放してしまったフィレンツェの人々は、後になってその罪を感じ、謝罪し、そして遺骨は帰ってこなかったけれども、ミケリーノのこの絵画によって、1枚の絵によって、ダンテに恩を果たしたのだと思うのです。」

ダンテの時代に大きな変化を遂げた「地中海世界」


(再生時間 21分57秒)

・十字軍の国家が消滅
「軍事的な関係として維持されたキリスト教世界とイスラム教世界の関係は、これで途絶することになり、消滅することになるはずです。
けれども大事なことは、そのようにして軍事的で政治的な関係は終幕を迎えたけれども、その200年間に、またこの消滅を越えてさらに、キリスト教世界とイスラム教世界の間にはさまざまな密接な関係が、接触が生まれました。もちろん、軍事的に戦争状態にあったけれども、でもその戦争状態よりもはるかに長く、またはるかに広く、キリスト教世界とイスラム教世界の間の直接の対面関係、向かい合いの関係が継続されたはずです。聖地エルサレムにおいてだけではなくて、その周辺さまざまな場所で、十字軍の軍事遠征をきっかけとして、両者の間にさまざまな人間的なつき合いや、あるいはもう少し広くいえば、さまざまな文化的交流が生まれました。 」

・地中海世界に密接な経済関係、交易関係が成立
「ようやくこの時代になって、まずは恐らくイスラム世界のだれかが、またそれに倣ってヨーロッパの、特にイタリアの港湾都市の人々が、帆で十分に航海することができる帆船をついに導入しました。真ん中にかかっている大きな四角の帆、通常は長方形ですが、長方形の帆と、そして普通は船尾にある三角形の帆、この長方形の帆と三角形の帆を巧みに使うことによって、帆船は風がどこから来てもほぼ思ったほうに向かっていくことができるという航海を可能にしました。 」

・西地中海世界とイタリアとの間の文化交流が盛んに
「ちょうどダンテが生きていた時代に、イタリアを含む地中海の西側、西地中海には、従来それまでにはない政治的な関係が生まれていたのでした。それは、もちろん以前からいろいろな関係を持っていた西地中海の世界で、まずはフランス、次いでスペイン、正確にはスペインというよりはアラゴン王国ですが、フランスの王国あるいはそのほかの諸侯たち、そしてスペインの諸侯たち、とりわけアラゴン王国が西地中海に勢力を拡大し始めて、とりわけシチリア、つまりイタリア半島のいちばん南についている島であるシチリアや、あるいはサルディニア、そしてついにはイタリアの本土である南イタリア、ナポリとその周辺といった所に勢力を伸ばし、この勢力は軍事的・政治的な勢力だけではなくて、商人たち、あるいはキリスト教の聖職者たち、そして詩人や芸術家たちが、その軍事進出に沿う形で西地中海各地に出没するようになりました。 」

・コンスタンチノープルとビザンチン帝国が復活
「パライオロゴス朝という王朝が復帰し、その復帰したのと同時に、コンスタンチノープルは自分たちの歴史的な役割、使命とか、自分たちが蓄積した文化のさまざまな要素といったものに対して、強い意識、認識を持つようになりました。いま風にいえば、このパライオロゴス朝の復活によって、コンスタンチノープル、ビザンチン帝国は彼らなりのルネサンスを迎えていたのでした。 」

・都市国家の間に文化的な蓄積への関心が生まれる
「イタリアの各都市国家は、それぞれお互いに相競いながら、ときには相ののしり合いながらでも、自分たちの都市についての自覚、自己認識というものを急に主張し始めたのです。何で急にこんなことを考え始めたのか。そう簡単に説明できる事柄ではないようですけれども、でも確かにダンテがフィレンツェについて語ったのと同じように、ほかの都市もそれぞれ皆自分たちについて語り始めた。自分たちの歴史、自分たちの役割、そして自分たちの政治政策について語り始めた。それがちょうどダンテが生きていた13世紀から14世紀にかけての事態でした。 」

地中海世界の変化がダンテに与えた影響


(再生時間 12分56秒)

・イスラム世界とキリスト教世界との関係は、ダンテにどのような影を落としたか
・大論争を巻き起こしたアシン・パラシオスの「『神曲』におけるイスラム終末論」
「アシン・パラシオスはいまから100年近く前、1919年に有名な著作を著して、ダンテ学者のみならず、文学研究者や歴史家に大きな衝撃を与えました。タイトルは「『神曲』におけるイスラム終末論」という大きな書物でした。
この中で、アシン・パラシオスは「実はダンテの『神曲』におけるさまざまな表現は、その部分部分の言葉遣いのみならず、地獄、煉獄、天国、そしてここにある大きな空、天空も含めて、これらについての観念は、多くの部分はイスラム教世界からの示唆によって、ヒントによってつくり上げられている」という議論でした。」

・13-14世紀の新しい詩人たち 清新体(dolce stil nuovo)
「その清新体、dolce stil nuovoは、単にダンテとその周辺の詩人たちだけで急に発明され、出現したものではなくて、たぶんこの清新体は、ダンテが生きていた時代、つまり13世紀の後半から14世紀にかけて、シチリアや南フランス、プロバンスや、あるいは東スペイン、カタロニア、アラゴンでそれぞれにつくり上げられてきた語り方、また語るに当たっての内面性、そしてなかでもお互いが皆共通に合い言葉として使っていた「愛」、これらを共有しているに違いないと考えられるようになりました。
先ほど申しました通り、ちょうどこの時代、フランスとスペインとシチリアとイタリアのさまざまな勢力が、軍事、経済といった関係だけではなくて、お互いに言葉や芸術表現といったさまざまな分野で接触と交流が始まっていった時代に、ちょうどこの清新体はダンテとその周辺で生まれました。
ダンテの背景にある地中海と、この場合は主に西地中海ですが、地中海のさまざまな構造の変化というものが、ダンテに大きな刺激と、また新しい詩の文章の形成を促したに違いないだろうと考えることができます。」

コンテンツ名 ダンテフォーラム「フィレンツェ―至高の文化の誕生」(全3回)
収録日 2004年11月14日
講師 樺山紘一
簡易プロフィール

講師:樺山紘一

(国立西洋美術館長・東京大学名誉教授)

肩書などはコンテンツ収録時のものです

会場:東京都美術館講堂
主催:財団法人エンゼル財団・日本経済新聞社・東京都美術館
収録映像:著作権者 財団法人エンゼル財団
本コンテンツでは、2004年10月~12月、東京都美術館で開催された「フィレンツェ―芸術都市の誕生展」を記念して行なわれたダンテフォーラム「フィレンツェ―至高の文化の誕生」(全3回)の模様を配信しています。

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